どの箇所を検討するのか、それが問題だ
対局終了後、検討をすることがよくあります。簡単なものからはたまた、対局者以外の何人かが集まってじっくりと、ということもあったりします。
検討は楽しいものです。しかし、なかには検討と私には思えないものもあるのです。
私が検討する所というのは、勝敗の分かれ道になったであろう箇所です。
「この手が不味かったのかな。」
「ここに打とうとも思ったんですが、どう思いますか?」
お互いに意見を出しあいます。検討に参加している人たちは、より良い手を探すために、より強くなるためにわいわいがやがやと議論します。勝っても負けても、検討とは前向きでありたいと思っています。
しかし、そうではない検討も時にはあるのです。対局相手が負けたときにそれは起こります。大抵、「ここでこう打っていたら自分が勝っていた。」というくだりから入ります。囲碁は黒白交互に打つゲームであるにもかかわらず、自分の都合のいいように並べていきます。「勝手読み」というやつです。それを長々と説明するのです。そして、検討箇所は勝敗に関係ないところであることが大半です。中押しの場合などは終了直前の部分的なところを取り上げてきます。私は、その箇所の原因となった手にさかのぼって意見を聞きたいのですが、聞いてもらえません。このような後ろ向きな検討はご勘弁願いたいとつくづく思うのです。
碁会所では前者、ネット碁会所では後者が多いです。ネットでは検討時、制御権を持つと黒白両方自分で動かす事になるからひとりよがりな検討になるのかもしれません。碁会所では周りから次々にああだこうだと意見が出てくるので違ったものとなるのでしょう。
私の考えている「検討」も私の意見であって、その是非も人それぞれだと思います。それでも私は検討も前向きで楽しくありたいです。
検討は楽しいものです。しかし、なかには検討と私には思えないものもあるのです。
私が検討する所というのは、勝敗の分かれ道になったであろう箇所です。
「この手が不味かったのかな。」
「ここに打とうとも思ったんですが、どう思いますか?」
お互いに意見を出しあいます。検討に参加している人たちは、より良い手を探すために、より強くなるためにわいわいがやがやと議論します。勝っても負けても、検討とは前向きでありたいと思っています。
しかし、そうではない検討も時にはあるのです。対局相手が負けたときにそれは起こります。大抵、「ここでこう打っていたら自分が勝っていた。」というくだりから入ります。囲碁は黒白交互に打つゲームであるにもかかわらず、自分の都合のいいように並べていきます。「勝手読み」というやつです。それを長々と説明するのです。そして、検討箇所は勝敗に関係ないところであることが大半です。中押しの場合などは終了直前の部分的なところを取り上げてきます。私は、その箇所の原因となった手にさかのぼって意見を聞きたいのですが、聞いてもらえません。このような後ろ向きな検討はご勘弁願いたいとつくづく思うのです。
碁会所では前者、ネット碁会所では後者が多いです。ネットでは検討時、制御権を持つと黒白両方自分で動かす事になるからひとりよがりな検討になるのかもしれません。碁会所では周りから次々にああだこうだと意見が出てくるので違ったものとなるのでしょう。
私の考えている「検討」も私の意見であって、その是非も人それぞれだと思います。それでも私は検討も前向きで楽しくありたいです。
定石であれ格言であれ
「マイケル・レドモンド九段の基本は格言にあり」が2008年4月から9月まで放送される。「二立三析」、「ポン抜き30目」、「車の後押し」などの格言を学ぶ事が出来、囲碁を始めたばかりの人には、囲碁がより面白みを増すための毎週20分になるでしょう。
しかし、NHK囲碁講座テキスト4月号を読んでみて思ったのは、格言を学ぶ事は強くなる近道であるけれども、ただ用いるだけではそんなに強くはなれないということ。自分の頭で考えて強くなるのが本筋であり、格言を鵜呑みにして打つのは強くなるのを阻害する要因にもなりうるということです。
「定石は覚えて忘れろ」という格言がありますが、同様に、「格言は覚えて忘れろ」であると思います。(私は「定石は覚えてしまってその局面で使用するかどうか自分で考えて打つ」ことにしていますが。)借り物の知識となるだけであるならば、格言も知らないほうが強くなれるのかもしれません。
テキスト4月号にも載っていますが、「二線は敗線、四線は勝線」という格言があります。では、なぜなのか示すことが出来ますか?理解していればできるはず。なのですが、結局のところ、いくら本を読んでもこの答えに出会ったとは思えずにいます。4月号のテキストでは私は納得できていません。経験則であり、それを理由にされても納得しきれないのです。したがって、今もまだ頭の中にクエスチョンマークが点灯しています。(一応、自分なりの答えは持っていますが。)自分で説明できて初めて自分が理解できたのかなと思えるのですが、格言のほとんど全てに対して、なぜなのか自分なりの説明が見つからないのは、囲碁は底が見えないほど奥が深いと感じるところでもあります。
「教育を受けていない人が十年必死で考えて数学の新発見をしたが、それは既に知られている学校で習う方程式の解き方だった。」という話があります。それではその努力は全くの無駄ではないにせよむなしくやるせないです。知ることが出来る事はどんどん知ってしまうほうがいいと思っています。ただ、とどのつまり知識を肥やしにして自分の頭で考えて有効利用出来るかどうかではないでしょうか。格言を知っただけでも強くなれるとは思いますが、逆に知らなくても十分プロレベルまでいけるのは、テキスト4月号冒頭のマイケル・レドモンド九段のインタビューにある通りです。定石であれ、格言であれ、詰碁であれ、棋譜並べであれ、強くなるのにこれらが必須事項なのかどうかですら私には分かりません。私が分かっているのは、自分の頭で考えることで強くなる、ただそれだけです。格言も知識とするのではなく、知恵として活用できるようになりたいものです。
しかし、NHK囲碁講座テキスト4月号を読んでみて思ったのは、格言を学ぶ事は強くなる近道であるけれども、ただ用いるだけではそんなに強くはなれないということ。自分の頭で考えて強くなるのが本筋であり、格言を鵜呑みにして打つのは強くなるのを阻害する要因にもなりうるということです。
「定石は覚えて忘れろ」という格言がありますが、同様に、「格言は覚えて忘れろ」であると思います。(私は「定石は覚えてしまってその局面で使用するかどうか自分で考えて打つ」ことにしていますが。)借り物の知識となるだけであるならば、格言も知らないほうが強くなれるのかもしれません。
テキスト4月号にも載っていますが、「二線は敗線、四線は勝線」という格言があります。では、なぜなのか示すことが出来ますか?理解していればできるはず。なのですが、結局のところ、いくら本を読んでもこの答えに出会ったとは思えずにいます。4月号のテキストでは私は納得できていません。経験則であり、それを理由にされても納得しきれないのです。したがって、今もまだ頭の中にクエスチョンマークが点灯しています。(一応、自分なりの答えは持っていますが。)自分で説明できて初めて自分が理解できたのかなと思えるのですが、格言のほとんど全てに対して、なぜなのか自分なりの説明が見つからないのは、囲碁は底が見えないほど奥が深いと感じるところでもあります。
「教育を受けていない人が十年必死で考えて数学の新発見をしたが、それは既に知られている学校で習う方程式の解き方だった。」という話があります。それではその努力は全くの無駄ではないにせよむなしくやるせないです。知ることが出来る事はどんどん知ってしまうほうがいいと思っています。ただ、とどのつまり知識を肥やしにして自分の頭で考えて有効利用出来るかどうかではないでしょうか。格言を知っただけでも強くなれるとは思いますが、逆に知らなくても十分プロレベルまでいけるのは、テキスト4月号冒頭のマイケル・レドモンド九段のインタビューにある通りです。定石であれ、格言であれ、詰碁であれ、棋譜並べであれ、強くなるのにこれらが必須事項なのかどうかですら私には分かりません。私が分かっているのは、自分の頭で考えることで強くなる、ただそれだけです。格言も知識とするのではなく、知恵として活用できるようになりたいものです。
囲碁は他のゲームよりもマナーを守らない人が多いと感じます
「マナー」、囲碁において礼儀作法は大切なもののひとつらしいです。「らしい」と書いたのは、私にはこれを重んじているように目に映らないからです。私にとって、碁盤・碁石を丁寧に扱う事や対局前、終局後の挨拶、これらは自然な事でした。囲碁特有の注意事項といったら、自分の手を打つとき以外に碁笥に手を突っ込まない事でしょうか。ジャラジャラと音を鳴らすのは、自分が集中できなくなるからとか見苦しいからという理由で良くないとされています。本当にこれが見苦しいですか?私はこの行為をしません。そして、相手がこれを行(おこな)っていても、あまり気になりません。なぜかと言えば、他にもっと顕著なマナー違反があると思っているからです。
それは、「ぼやき」です。「失敗した。」「やっちゃった。」「馬鹿だねえ。」非常にうるさいです。これこそマナー違反だと思うのですが。自分が集中できなくなるマナー違反よりも、相手を盤面に集中できなくさせるマナー違反のほうが罪が重いはずなのに、「ぼやきはマナー違反だ」というのを耳にしたことはありません。タイトルを取るような強い人たちがしているから構わないのでしょうか?それならば、現在の相撲界のトップの素行の悪さも全く気にならないと言うのでしょうか?将棋で対局中にぼやくというのをNHK杯であったかといえば私は記憶にありません。ところが、囲碁はぼやきまくり。勝負をするなら、盤面という小宇宙の中でやればいい。ぼやくと言う盤外を勝負に絡めるのは、スマートではありません。大差がついていれば棋譜を汚したくないから投了するという美学を持っているはずなのに、相手の心を乱しかねない、そしてそれによって盤面にも悪影響が及ぶかもしれないぼやきはいいのでしょうか。
私としては、静かに打ちたいです。盤上に集中してあれこれ考えるのが大好きです。もちろん、仲間内で打っている時にはそんなにかしこまる必要は無いと思っています。私も声を発してしまう事がありますが、わいわいがやがやとしていたとしても良い事だと思っています。楽しく打つことが最良です。しかし、単純に勝負に集中している時にぼやく人と打ちたくないと思うのもまた事実です。礼儀とは自分の目の前の相手に敬意を払う行為だと考えていますが、軽んじられているのではないかと思ってなりません。
ちなみに、いくら大好きなプロ棋士がやっていることであっても、自分の頭を音が鳴るほど叩いたり、ハンカチをかんだりという行為をマナーとして一般にどう捉えられているのか気になっている事は言うまでもありません。
それは、「ぼやき」です。「失敗した。」「やっちゃった。」「馬鹿だねえ。」非常にうるさいです。これこそマナー違反だと思うのですが。自分が集中できなくなるマナー違反よりも、相手を盤面に集中できなくさせるマナー違反のほうが罪が重いはずなのに、「ぼやきはマナー違反だ」というのを耳にしたことはありません。タイトルを取るような強い人たちがしているから構わないのでしょうか?それならば、現在の相撲界のトップの素行の悪さも全く気にならないと言うのでしょうか?将棋で対局中にぼやくというのをNHK杯であったかといえば私は記憶にありません。ところが、囲碁はぼやきまくり。勝負をするなら、盤面という小宇宙の中でやればいい。ぼやくと言う盤外を勝負に絡めるのは、スマートではありません。大差がついていれば棋譜を汚したくないから投了するという美学を持っているはずなのに、相手の心を乱しかねない、そしてそれによって盤面にも悪影響が及ぶかもしれないぼやきはいいのでしょうか。
私としては、静かに打ちたいです。盤上に集中してあれこれ考えるのが大好きです。もちろん、仲間内で打っている時にはそんなにかしこまる必要は無いと思っています。私も声を発してしまう事がありますが、わいわいがやがやとしていたとしても良い事だと思っています。楽しく打つことが最良です。しかし、単純に勝負に集中している時にぼやく人と打ちたくないと思うのもまた事実です。礼儀とは自分の目の前の相手に敬意を払う行為だと考えていますが、軽んじられているのではないかと思ってなりません。
ちなみに、いくら大好きなプロ棋士がやっていることであっても、自分の頭を音が鳴るほど叩いたり、ハンカチをかんだりという行為をマナーとして一般にどう捉えられているのか気になっている事は言うまでもありません。
あけましておめでとうございます
遅ればせながら、新年の挨拶をさせていただきます。
さて、不定期に約30ほどの記事を書く予定でいるこのブログですが、今年も囲碁を楽しみつつ、囲碁について色々と考えていきたいと思います。
さて、不定期に約30ほどの記事を書く予定でいるこのブログですが、今年も囲碁を楽しみつつ、囲碁について色々と考えていきたいと思います。
早く読んで打てるのも棋力のひとつ
私は早碁が苦手です。ゆっくりと色んな手を考えながら打つのが楽しいがために囲碁をやっているので、長考派同士でじっくりと対局したいのですが、それでもネット対局場で早碁を打つ機会もあります。その時よくあるのが、時間切れ負けした時の相手の言い訳です。時間のせいで負けたと愚痴をこぼすのですが果たしてどうなのでしょうか。
とどのつまり、頭の回転が遅いだけだと思います。優柔不断という性格の問題もあるでしょう。その人にとって、棋力的に悩ましい局面に遭遇した時の思考が一時停止するのが原因で、判断できなくなるのです。
対局時間の問題で言えば、よく囲碁大会の規定で持ち時間があって、使い果たしたら負けというのがあります。時間が切れる寸前の人が優勢であった場合、負けている側は投了するべきか否か。私は投了すべきではないと考えます。これも、考えがまとまらないがために短い時間で考える事が出来なかったから時間消費したのであり、時間消費量を減らしていたなら、盤面の状況は違うものであるだろうからです。そもそも、ルールで対局時間が決まっているのだからそれを守れない人が勝利を手にして、ルールを遵守した人が負けるなんてことがあったらもうゲームではありません。(チーター「Cheater」の行為は不当である事は言うまでも無いでしょう。)
早碁といっても考える時間が少なからずあります。その少ない時間の間にどれだけ読めるのかも棋力が少なからず関係していのではないでしょうか。時間のせいにせず、自分の力不足を見つめ、棋力向上に努めようとすることが大切だと思います。
もちろん、気の合う仲間同士で時間の事をあれこれ言うのはナンセンスであるのは言うまでもありません。
とどのつまり、頭の回転が遅いだけだと思います。優柔不断という性格の問題もあるでしょう。その人にとって、棋力的に悩ましい局面に遭遇した時の思考が一時停止するのが原因で、判断できなくなるのです。
対局時間の問題で言えば、よく囲碁大会の規定で持ち時間があって、使い果たしたら負けというのがあります。時間が切れる寸前の人が優勢であった場合、負けている側は投了するべきか否か。私は投了すべきではないと考えます。これも、考えがまとまらないがために短い時間で考える事が出来なかったから時間消費したのであり、時間消費量を減らしていたなら、盤面の状況は違うものであるだろうからです。そもそも、ルールで対局時間が決まっているのだからそれを守れない人が勝利を手にして、ルールを遵守した人が負けるなんてことがあったらもうゲームではありません。(チーター「Cheater」の行為は不当である事は言うまでも無いでしょう。)
早碁といっても考える時間が少なからずあります。その少ない時間の間にどれだけ読めるのかも棋力が少なからず関係していのではないでしょうか。時間のせいにせず、自分の力不足を見つめ、棋力向上に努めようとすることが大切だと思います。
もちろん、気の合う仲間同士で時間の事をあれこれ言うのはナンセンスであるのは言うまでもありません。
